ポーラログラフィー:ヘイロフスキーと志方益三の関係
Heyrovsky J, Shikata M. Researches with the Dropping Mercury Cathode. Part II. The Polarograph. Rec.Trav.Chim.Pays-Bas,44,469-499 (1925)
酸素電極の働作やメカニズムを調べると、「ポーラログラフィー」という単語や「ヘイロフスキー」という人名がときどき登場します。私の訳したコムロウの『医学を変えた発見の物語』にも「水銀の滴数を数える」とありますが、その時は意味がわからないまま訳しました。さらに、この関係の論文リストには、ヘイロフスキーの共著者として"Shikata"という日本人らしい人名も見えます。
ポーラログラフィーのことは、概念的な点はともあれ詳しい装置や実際の施行法は知りません。こうしたいくつかの疑問を解決したくて、いろいろと調べてみました。
ポーラログラフィーとは何か
「溶液に電気を流した時におこる(電気)現象は、溶液の性質に依存する。したがって、電気現象を知ることによって溶液の性質がわかる」というのが、ポーラログラフィーの原理です。使用する装置は図のようなものです。電極をただ液体に突っ込んで、電流を流すと「分極」が起こります。溶質が電極に付着して、電極の働きが変わるのです。血液の場合はたんぱく濃度が高いので、短時間で強い反応が起こり、特に深刻です。
ここで「水銀滴下」という方法が効果を発揮します。電極となる毛細管から水銀滴を落とすと、この電極端には常に純粋の金属水銀が露出し、分極による「汚染」が防がれ、安定した電気現象が得られるので、これが「水銀滴下」の意味です。滴下の頻度は条件によりますが、だいたい数秒に1滴だそうです。この「滴下水銀電極」自体は、ヘイロフスキー以前からありました。
一方、ヘイロフスキーがポーラログラフィーを開発するより25年も前の1897年に、ダニールという人が「水の電気分解を行う際に、水に酸素が溶けていると流れる電流の量は酸素の量(つまり分圧)に比例して増加する」という、酸素電極の基本を発見していました。
さて、ヘイロフスキーの最初の目的は「電気現象の解析」ではありませんでした。若者ヘイロフスキーが教授に命じられたのは、「この電極の振舞いに重要な金属水銀の毛細管現象を検討する」という物質の物理(物性)の研究でした。そのために、ヘイロフスキーは毛細管から流れ出す水銀の滴数を当初は目視で数えたようです。しかし、やがて「目視で数えるのはつまらない、電気で計ろう」と考えました。二つの電極の間は電導体である水溶液でつながっているので、測定可能です。
面白いのはこの次です。教授から与えられた問題は、「滴下水銀電極の振舞い」と要約できるでしょうが、ヘイロフスキーはこの測定によって介在する溶液の組成を分析するというアプローチに逆転したのです。「酸素の存在で電解がます」のだから「電流を測定して酸素を測る」という転換と同じです。
ポーラログラフィーが一世を風靡した分析手法であることは疑いもありませんが、ある分析化学の本には「その後原子吸光やプラズマ発光など新しい分析法に切りかわり,最近はポーラログラフィーを利用する機会が随分減っている.」とありました。どんな方法も永遠ではなく当然です。
科学におけるセレンディピティ
ヘイロフスキーが与えられたテーマを「電気回路で解こう」と考えた時点で、ポーラログラフィーへの道が開けました。「水銀滴の数を数える」という問題より、これによって溶液の化学性を測定するほうが重要と考えたのです。推測ですが、「水銀滴の滴数を数える」のに適切な溶液を探したり、溶液の性質を調査したりしながら、逆に「電流から溶液の性質を推測する」アイディアに到達したのでしょう。
科学の歴史において、「発想の転換」が大きな発見となるのはよく知られていて、ヘイロフスキーにもこれがいえます。「セレンディピティ:serendipity」は、セイロン(現在のスリランカ)の伝説から英語になった用語で、「偶然をとらえて優れた結果を招く能力」を意味し、現在では広辞苑にも掲載されるほどポピュラーになりました。
留学生志方益三の果たした役割
ここで日本からの留学生、志方益三が登場します。彼は、ヘイロフスキー(1890年生まれ)より5歳若く(1895年生まれ)東京から留学して一緒に研究していました。そうして、「手動で電圧を変えては電流を測定する」という本来のやり方を、「電圧を自動的に連続的に変えて、電流変化を自動的に測定する」装置に改良して、短時間で大量のデータ取得を可能にしたのです。「電気的測定で物質を測る」論文はヘイロフスキーが単独で1923年に発表しましたが、「自動記録装置」を使った研究は1925年にヘイロフスキーと志方の名で発表され、論文タイトルに「ポーラログラフィー」という名がつきました。
志方氏は1920年に東大農学部を卒業して、1922年にチェコに留学した時、まだ20代後半でした。因みに、この装置が志方氏の協力でできたことは、ヘイロフスキーがノーベル賞の記念講演でも述べ、ポーラログラフィー関係の数多い外国のインターネットのサイトでも"Heyrovski and Shikata" として紹介され、決して日本人の身びいきではありません。
ポーラログラフィーと酸素電極の関係
クラークが電極を発表する以前の血液酸素分圧の測定法は、大きく分けて二つありました。一つは「気泡平衡法」で、血液に小さな気泡を導入して、この気泡を血液と平衡状態にして取り出し、微量ガス分析装置で分析するもので、1920年頃にあのクローKroghが一応完成しています。
もう一つが、「ライリーの水銀滴下法」と呼ばれるもので、ポーラログラフィーそのものです。図の被験液Sに酸素を含む血液をおけば、血液中の酸素量つまり分圧が推定できます。因みに、この「ライリー」はRichard L. Riley で大変有名な呼吸生理学者ですが、上記の「気泡平衡法」にも論文があります。いずれも1945年頃の仕事で、クラークによる酸素電極の発明までに随分苦労して、いわば「回り道」していたことを示しています。
志方益三氏について
志方氏の経歴を拝見すると、本当に若いときにチェコに留学してヘイロフスキーに協力するという幸運に恵まれています。当時のチェコは共産圏ではなく比較的恵まれていましたが、際立った科学先進国ではなかったはずで、そこへ留学して自分よりほんのわずか年上の立派な研究者と協力関係を結んだのでした。チェコから帰国して京都大学に奉職した後、大陸で働いて戦後は帰国まで大変に苦労されたことでしょう。理化学辞典の記載では、1953年に帰国となっていて、戦後8年間も大陸に留まったことになります。それでも、1956年には学士院賞恩賜賞で報いられており、ノーベル賞の協力者であったことを含めて、恵まれた研究の人生といえると私は感じます。
Heyrovsky&Shikata の論文は、Heyrovsky 単独の論文とともに理研にありました。論文には装置の概念図と写真、それに大量のポーラログラフ(つまり記録の図)が載っていますが、文章部分は2頁足らずとごく短いものです。
参考:
Heyrovsky J. Electrolysis with a Mercury Cathode. Part I. Deposition of Alkali and Alkali Earth Metals. Phil.Mag.,45,303 (1923)
Heyrovsky J. Trend in Polarography. Nobel Lecture December 11, 1959. (ノーベル賞受賞記念講演。インターネットに掲示)