わたしたちは急性期医療に携わる医療従事者に役立つ学術情報を提供します

pH測定の歴史:ハーバーのガラス電極発明とベックマンの商品化

英文タイトル: History of pH measurement: Harber's glass electrode and Beckman's measurement system

インターネットをみていて、ハーバー Haber (1868-1934)がpH 測定用のガラス電極を発明した点(Ref 1) と、ベックマン Beckman(1900-2004) がpH 測定器を商品化して測定の確立に大きな役割を果たしていると知りました。この二つは、アストラップとセブリングハウスの2冊の本にはほとんど触れられていませんが、いずれも重要な仕事と考えるのでそれを中心に紹介します。

ハーバーのノーベル賞とpH 電極
高等学校の化学で「ハーバー法によるアンモニア合成」というのを勉強します。それまでこの種の窒素化合物は有機物の分解からしか得られなかったのですが、窒素と水素からアンモニアを製造するハーバーの方法によって工業的な製造が可能になり、窒素肥料が手に入りやすくなって食料増産が飛躍的に伸びたと書いてあります。この開発は1910年代初期のことで、ハーバーはこの業績で1918年のノーベル化学賞を受けました。
ハーバーのこの仕事は、「化学の歴史」(http://www.chemheritage.org/classroom/chemach/index.html)の中の、"Theory and Production of Gases "などにゲイリュサックやノーベルなどの次に挙げられるくらいに偉大な業績です。そのハーバーがそこからほんの数年さかのぼる1909年に、pH 測定用のガラス電極を発明したこともここに述べられています。さらにこの点に関しては、「pH 電極の歴史」の頁(http://www.ph-meter.info/pH-meter-history および http://www.ph-meter.info/pH-electrode)にも載っています。
ところで、この1909年はこのガラス電極だけではなくて、"pH"あるいは酸塩基問題の歴史でも重要な年です。それは、ソーレンセン Sorensen(1868-1939) が"pH"の概念を提唱して受け入れられたからです(Ref 3)。ソーレンセンはデンマークの生化学者で、"o" に/が入るので英語式には"Soerensen"と綴るべきかもしれません。その事情は以下のようです。1900年頃には主にネルンストらが、「水素ガス/プラチナ電極」というものを開発し、それで水素イオン濃度が測定できるようになりました。この装置は、水素が1気圧で酸が1モルのときに電位がゼロになり、[H+]が1/10になる毎に59.5mVずつ低下する性質を示しました。この関係を利用して、ソーレンセン は"pH" という単位を提唱して、学界から受け入れられたのです。それに対して、当初「pH の概念は、測定器がそういう性質を持っていただけのこと」と高くは評価しなかったグループもいたようですが、その後いろいろな事実から各種の化学反応は生体の反応も含めて「対数尺になっている」ものも多いと判明し、「pH は単なる便宜的なスケールではなくて、反応の本質にせまる尺度」と解釈されることになりました。ちなみに、こちらも上記「化学の歴史」の"Electrochemistry and Electrochemical Industries"の項目に解説されています。

ハーバーからベックマンのpH 測定装置まで
ベックマンがpH 測定装置を製品化したのは1935年頃のことです。ハーバーの1909年から1935年までの間に何が起ったのでしょうか。pH電極は、ネルンスト/ソーレンセンの水素電極もハーバーのガラス電極も、「電圧発生」型のトランスデューサーです。しかし、これを直接測定するのは容易ではありません。当時、微細な電気信号をとりだすには"ガルバノメーター"つまり電流計を使いました。古い「電気計測器」の表示部分には、目盛りの上を針が動くものが使われていたのをご記憶の方が少なくないと思いますが、あれは「磁場にコイルをおいて電流を流すと回転して針が動く」原理を利用したもので、ハーバーの時代にはこの原理を電流の計測自体に使いました。因みに、アイントホーフェン(アイントーベン)が心電図の測定と記録に成功して業績を挙げたのは1900年頃で、彼が優秀な「弦線電流計」つまりガルバノメーターを製作したのが大きな要因で、心電図自体はそれより20年ほど遡ってしっかりと記載されてはいます。心電図は本来電気信号であり、アイントホーフェン自身がこの問題を詳しく追及して電流計にも工夫を加えて発展しました。しかし、ガラス電極の場合はハーバーの関心がここから窒素の固定に移ったので、発展が一時停止して本格的な使用には真空管アンプを待つことになりました。
真空管はいろいろな問題が関与して、「誰がいつ発明した」かは明確ではありません。1895年にレントゲンがX線発見に使用した「クルックス管」も真空管の一種で、1878年に製作されています。X線発見の直後には、ブラウン管もできていてこれも真空管の一種です。1906年には増幅機能のある3極真空管が作られ、1920年以降は真空管を利用した実用的なアンプ(アンプリファイア、増幅器)が作れるようになり、初段部分に高い抵抗をおいて、電圧増幅の線形性も良好に保てるようになりました。
ベックマンは、この真空管アンプ組み込みを「商業レベルで実行」してpH メーターの製品化に成功しました(http://www.chemheritage.org/classroom/chemach/electrochem/beckman.html)。上記のガルバノメーターを高性能化する道を避けて、アンプ増幅と「安いガルバノメーター式メーター」の組み合わせで表示する道をとったのです。このアプローチは、1970年代にマイクロチップが開発されて各種機器がディジタル化されるまで、すべての計測機器の標準手法でした。こうした事情は、上記「化学の歴史」の"Electrochemistry and Electrochemical Industries"の項目にソーレンセンのすぐ次に記述されている他、「pH 電極の歴史」の項目やウィキペディア(電子百科事典、英文のほう、http://en.wikipedia.org/wiki/PH_meter )の項目にも説明されています。
ベックマンの最初の商品は195ドルという価格で、今なら数千ドルの感じでしょうか。1935年というと、1929年に始まった大恐慌の余波が残っている時期で「売れるはずがない」との反対が強く、「pH測定器の市場は10年間で600台」と予測した人もいたそうです。しかし、実際には最初の1年で450台も売れて、当初の推測よりは使い道が広いと判明しました。
なお、この装置はトランスデューサー/アンプ/メーターを一体にした点も特徴でした。インターネットの記述には、「携帯式を意図したのかハンドルがついていたが実際の重量は8kg もあって、携帯は到底不可能」と書いてあります。たしかに「携帯式」ではないとしても、「可搬式」ではあったでしょう。それに、こんなことも思い出しました。現在のノートパソコンは重量1kg 余りですが、初期のノートパソコン(東芝のダイナブックなど)は3kg 近くありました。さらにその前には「ラップトップ」(「膝において使う」意味)と呼ばれた6~7kg の機種もあって「ラップクラッシュ」(膝を痛める)という悪口があったのを思い出します。私自身が、この”ラップクラッシュ”器を「かついで」京都まで出かけた記憶があります。一週間近く続いた当時の臨床肺機能講習会(現在の臨床呼吸機能講習会)の際だったでしょう。

ハーバーとベックマンのその後
ハーバーとベックマンのその後に触れます。ハーバーの窒素固定は、肥料に使われるだけでなくて爆薬製造にも有用で、第一次大戦でのドイツの降伏を遅らせる役割を果たしたと書いてあります。ハーバーは、さらに当時の主要兵器であった毒ガスの研究にも携わり、これに反対した夫人を自殺で失っています。ハーバーは自身が優れた研究者であったと同時に、研究を組織する能力も豊かだったようで、いくつかの組織を造りその責任者も務めました。ノーベル賞の受賞講演には「戦争には勝者はいない。犠牲者だけが残る」という言葉があり、第一次大戦終了時にあたる1918年の発言として痛切に響きます。
それほど大きな業績のあったハーバーを、ヒットラーのドイツはユダヤ人だったが故に追放し、ハーバーはその後イギリスへ、次いでスイスへと逃れて不遇のうちに亡くなったようです。ところで現在のベルリンには、"Fritz-Haber-Institut der Max-Planck-Gesellschaft" つまりマックスプランク研究所の中に「フリッツハーバー研究所」があり、活発に研究活動を進めて、発表論文も数多く出ています。
一方、pH測定器で成功したベックマンは1940年にはCaltech(カリフォルニア工科大学)の教授を辞任して会社経営に力を注ぎましたが、大学の理事としては1974年頃まで活動を続け、自身も多額の寄付を寄せると同時に、大学のお金集めにも活躍しました。実に104歳の長寿を保ち、亡くなったのはつい最近のことです。

[諏訪邦夫]

参考文献
1. Cremer M. Ueber die Ursache der elektromotorischen Eigenshaften der Gewebe, zugleich ein Beitrag zur Lehre von den polyphasischen Electolytketten. Z Biol 1906. 47:562 - 608

このウェブサイトではクッキーを使用しています

クッキーの使用について