血液酸素解離曲線の理論的取り扱いを調べてみて、いろいろと知らなかったことが判明しました。なお、原則として「本文がインターネットに公開されている」ものを使用しましたが、Bohr やHill の論文などその条件からはずれるものが少数あり、それは参考文献に示します。
2007年の現在からみてももちろんですが、1970年頃からみても「酸素解離曲線の大体の形、つまりあのS字型、およびそれがpH とCO2で移動する作用は1904年にボーアが決めた」と解釈していました(Ref 1)。しかし、気がついてみるとこの有名な研究で、ボーアはヘモグロビンと酸素の結合について、「現象とその生理的意義を記述している」だけで、ヘモグロビンと酸素の結合に関しては理論的に追究しておらず、その点は後世にまかせていたわけで、そのこと自体が新しい発見でした。
Barcroft の勇み足、Hill の式、Haldane の式
Barcroft は、20世紀初頭にケンブリッジ大学にヘモグロビン研究の「メッカ」を打ち立てた巨人とされる人ですが、その研究の初期にとんでもない勇み足をしています。
1910年、Barcroft はHill と共同してヘモグロビン分子と酸素分子との結合を研究し、「ヘモグロビンは分子量1万6千の単位が酸素分子一個と結合するのが唯一の結合方式で、したがって解離曲線は常に双曲線(ミオグロビンのそれに類似)である」と結論しています(Ref 2)。
これだけなら、「研究の初段階での間違い」としてほほえましいエピソードとして見逃せますが、それに続いて「ボーアのS字曲線は、ヘモグロビンの集合(aggregation)してできた人為的エラーを見落としたものだ」と断言しているのは言い過ぎで誤りですから、Barcroft 自身が後で悔いたことでしょう。
この論文は、上に書いたようにHill との共著ですが、果たしてHill 自身はどう考えていたのでしょうか。Hill は1886年生まれで、1910年には弱冠24歳です。これに対してBarcroft は1872年生まれで、Hill より14歳年上の38歳です。ですから、Hill はBarcroft の結論に賛成できなかったけれど、ここではBarcroft の言い分をそのまま受け入れたとも推測できます。
同じ1910年、今度はHill が単著であの有名な論文(Ref 3)を発表します。こちらは独立の論文ではなく、学会のProceedings としての発表されたもので、とにかくHill はここで「ヘモグロビン分子は集合体であることをみとめて、その数をn 量体として同じn 個の酸素分子と結合する」と仮定して質量保存法則を書き、それよりいわゆる「Hill の式」つまり
s= {k(Po2)^n}/{1+k(Po2)^n}
注:(Po2)^nは (Po2) のn乗を示す
を提示します。現在も酸素解離曲線の解析に時に使われ、また酸素解離曲線を超えて化学一般の領域でも使われる式です。ここで"s" は酸素飽和度ですが、パーセントではなくて100%を1として表示します。
Barcroft の名誉のために弁明すれば、彼は間もなくこの誤りに気づき、1913年以降 n は不明なままHill の分析を採用しています。(Ref 4,5)
酸素解離曲線の理論式としては、Hill の少し後にHaldane がまったく別の式を提案しています(Ref 6)。これは
p=Ky[1-b(1-y)]/[(1-y)(1+ay)] (3)
という形で、p が酸素分圧でyが酸素飽和度です。Roughton の文章(Ref 7) によると、この式はHaldane がカレッジの学生時代に開発したということです。Haldane は1860年生れですから、最初に書いたのは1880年頃ということになり、史上最初の理論式といえそうです。この数式は、私がテストしたところではS字でなくて双曲線ですが、1880年頃には酸素解離曲線は双曲線としかわかっていなかった事実と合致するのでしょうか。あるいは、係数の選択でS字曲線になるかも知れません。いずれにせよ、この式はその後は顧られることがほとんどありません。
なお、この論文に名を連ねるHaldane JBS は有名なHaldane の息子ですが、いろいろな事情で生理学研究から離れ、後に遺伝学その他の領域で名を残しました。
Adair :4量体の決定と4段階結合説
酸素解離曲線に関するAdair(Adair GS:1896-1979) の理論といえば、ヘモグロビン分子の4量体に酸素分子が一個ずる結合して行くという「4段階結合説」を指します(Ref 8)。
けれどもAdair の業績はこの事実の指摘に留まりません。科学の業績とすれば、「ヘモグロビンは4量体で1分子と確立した」ことのほうが偉大と考えてよさそうです。
ヘモグロビンの単量体が、質量数約16000であるとは、19世紀末には確立していましたが、実際のヘモグロビンが単量体で振舞うのか、いくつま集まって活動するのかは不明なままで、すでに19世紀にいろいろな大御所が各種の説を唱えています。Barcroft は単量体と結論し、Hill は不明のまま"n"という仮定の数値をあてはめました。
「ヘモグロビンは4量体である」と結論するのに、Adair は浸透圧測定を適用しました。それ自体は当時ひろく認識された方法ではありましたが、それにしても「ヘモグロビンは単量体か多量体か」は議論の多かったテーマで、すぐには信用しなかった人も多かったようです。
ここでAdair は好運に恵まれます。Adairが論文を発表するのとほぼ同じ頃、スウェーデンのSvedberg が超遠心による沈降速度法による巨大分子の分析法を開発し、これを当然ヘモグロビン分子に適用して「ヘモグロビンの分子量は66000程度」と決定したからです。おまけにAdair の論文の翌年の1926年には、Svedberg はノーベル賞まで受けてしまいます。Svedberg の論文(Ref 9) は公開されていませんが、ノーベル化学賞受賞講演が公開されて詳しく説明されています(Ref 10)。
これによって、Adair の「ヘモグロビンは4量体」の結論は支持され、それを用いた「4段階結合説」も信頼度がましたわけです。
「4段階結合説」はいろいろと十分に紹介されていますが、この論文の表現では
y=(0.25K1x +0.5K2x^2 +0.75K3x^3 +K4x^4)/(1+K1x +K2x^2 +K3x^3 +K4x^4)
となっており、K1~K4 は各段階の平衡定数、x は酸素分圧、y は酸素飽和度です。Adair はここで「K1~K4は未知なので、上式を使って酸素解離曲線を描くことはできない」と述べているのは良心的な態度というべきでしょうか。しかし、すでにここで「ヘム間相互作用」を導入して「Hill 式の数値n は、分子量からきまったn(=4) とは異なっておかしくない」と断言しています。
Adair の論文で気づいたことが二つあります。Adair はイギリス人で基本的にはケンブリッジ大学で働いていますが、この有名な論文はアメリカ、ボストンのマサチュ-セッツ総合病院の研究室から報告しています。そうして、この論文では自分のことを"I"とか"we"と呼ばずに"Adair"と第三者的に表現しています。論文はそれまでの分析を解説する雰囲気があって、Barcroft やHill の業績も紹介しているのも理由かも知れません。
それからもう一つ。1950年代にPerutz がヘモグロビンのX線解析によってたんぱく質の立体構造をつきとめますが、その際にヘモグロビンの結晶標本を提供したのが Adair であったと、Perutz のノーベル賞受賞講演と関連のエッセイなどに記述されています。Adair は1896年生れ、一方のPerutz は1914生れとほぼ20歳年下です。
Adair 以降の研究
Adair 以降の研究を、二つの方向に分けて記述します。一つは、Adair の考え方をみとめて、化学反応と数式の係数を改善して実際の酸素解離曲線の数値との一致を測る方向で、もう一つは、さらに既知の因子を組み込んで数式化し、曲線との合致を最優先して数学や数式の複雑化もいとわない方向です。中にはどちらにも分類しがたいものもあります。
Ⅰ. Adair 式改変の方向
Adair 式改変の方向が明確な報告の一つがMargaria のものです(Ref 11)。発表が1963年ですから、1960年代後半に発見された2,3DPGとヘモグロビンの結合は扱っておらず、Adairの反応スキームを詳細に分析して、係数を二つ除去してK1 とK4(に関係する数値)の二つだけ使用する簡単な数式を提案しています。
もう一つはRoughton と Severinghausのもの(Ref 12)で、こちらは2,3DPGの作用判明後の1973年の発表ですが、論文のタイトルからみるとおり正確な酸素解離曲線のデータ自体を示すのが中心です。しかし、論文の中で、その曲線の数値に正確に一致するようなAdair係数を4つのまま生かして、数値を正確に決めて示しています。2,3DPGを組み込む努力はしていません。
この線の研究として、ついでにKelman のものを挙げます(Ref 13)。Adair の原式にある4つでなくて、分母と分子のそれぞれを独立させて合計7つの係数を使用しています。中には負の値もあり、化学反応の平衡定数を議論する面からは意味がありません。純粋に「曲線適合のみ重視」の立場で計算したものです。この発表は、コンピュータの初期にその利用を示す可能性を示したものとして意義が大きいでしょう。もっとも、発表時はパソコンではなくて大型の装置の時代です。
Ⅱ. 既知の因子を加え、数式も複雑にして曲線との一致度を高める方向
こちらの進め方は現代風で数多くの発表がありますが、ここではRyallのものをまず挙げます(Ref 14)。この研究は、単に2,3DPGを組み込むだけでなく、Hb-2,3DPGの結合とHbO2-2,3DPGの結合を分けて扱い、さらにグルコース分子とHbの結合までも個々に扱っているだけに大変に複雑な数式になっています。
もう一つ有名なものとして、Siggaard-Andersen 氏のものを挙げます(Ref 15)。こちらも2,3DPGを組み込んではいますが、純粋の数学的な操作の要素が大きいといえそうです。特徴とすれば、双曲線正接関数(tanh)を使っていることと、逆関数が得やすい点でしょう。この関数はSiggaard-Andersen 父子が開発して発表している"OSA: Oxygen Status Algolithm"という血液ガスのパソコンソフトウェアにも使用されています。これについては、本シリーズで別に紹介しました。
おわりに
酸素解離曲線の理論的な扱いを概観しました。私の好みを少しだけ述べます。まず、ヒルの式です。この式はk と n の二つの係数の記憶が必要なようですが、実はn=2.7 だけで済みます。k は曲線の位置を定めるパラメーターで、p50(飽和度50%でのPo2) で下のように表現できます。
k =1/(p50)^n
したがって
s= {(Po2/p50)^n}/{1+(Po2/p50)^n}
p50の正常値は26.6~27.1 くらいですから、n の2.7 との関連で"27"としておけば記憶しやすく、あとはエクセルなどに簡単にプログラムできます。
もう一つはSiggaard-Andersen の式で、こちらは記憶できるほど簡単ではありませんが、さいわいパソコンに入っていて使用可能です。逆関数が得られる点と、精度は不明ながらp50値を知ることによって赤血球内の2,3DPG濃度も算出できる点などが面白いと感じます。
[諏訪邦夫]
参考文献: 下記のうち1, 3, 5, 9, 12 の各論文は、インターネットに無料公開されていないようです。
1. Bohr C, Hasselbalch KA, Krogh A. Ueber einen in biologischer Beziehung wichtingen Einfluss, den die Kohlensaeurespannung des Blutes auf dessen Sauerstoffbindung uebt. Skand Arch Physiol 16:402-412.1904.
2. Barcroft J, Hill AV. The nature of oxyhaemoglobin, with a note on its molecular weight. J Physiol. 39, 411-428.1910.
3. Hill AV. The possible effects of the aggregation of the molecules of haemoblobin on its dissociation curve. J Physiol 40:Proceedings iv. 1910.
4. Barcroft J. The combinations of haemoglobin with oxygen and with carbon monoxide. II. Biochem. J., 1913, 7,481-491.
5. Barcroft J. The Respiratory Function of the Blood, Cambridge, 1914.
6. Douglas CG, Haldane JS, Haldane JBS. The laws of combination of haemoglobin with carbon monoxide and oxygen. J. Physiol., 1912,44,275- 304.
7. Roughton FJW. The oxygen equilibrium of mammalian hemoglobin. Some old and new physicochemical studies. J Gen Physiol. 49:105-124,1965.
8. Adair GS. The hemoglobin system.VI. The oxygen dissociation curve of hemoglobin. J. Biol. Chem., 63,529-545. 1925.
9. Svedberg T, Fahraeus R. A new direct method for the determination of the molecular weight of the proteins. J. Am. Chem. Soc. 48, 430 - 438. 1926.
10. Svedberg. The ultracentrifuge. Nobel Lecture, May 19, 1927.(http://nobelprize.org/nobel_prizes/chemistry/laureates/1926/index.html)
11. Margaria R. A mathematical treatment of the blood dissociation curve for oxygen. Clin Chem 11: 745-762, 1963.
12. Roughton FJW, Severinghaus JW. Accurate determination of O2 dissociation curve of human blood above 98.7% saturation with data on O2 solubility in unmodified human blood from 0 to 37℃. J Appl Physiol 35, 861-869 (1973).
13. Kelman GR. Digital computer subroutine for the conversion of oxygen tension into saturation. J Appl Physiol 21: 1375-1376, 1966.
14. Ryall RG, Story CJ. An equilibrium model of the oxygen association curve of normal human erythrocytes under standardized conditions. Clin Chem 29(10), 1819-22. 1983.
15. Siggaard-Andersen O, Wimberley PD, Goethgen I, Siggaard-Andersen M. A Mathematical Model of the Hemoglobin-Oxygen Dissociation Curve of Human Blood and of the Oxygen Partial Pressure as a Function of Temperature. Clin. Chem. 30(10) 1646-1651.1984.