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ペルーズとヘモグロビン、研究所開設

英文タイトル:Max Perutz and his Analysis of Hemoglobin Molecule and his Winning the Nobel Prize in Chemistry

インターネットには、いろいろな講演やエッセイが掲載されています。たとえば、ノーベル賞受賞講演が読めます。通常の学術論文と異なり、研究者の仕事を「まとめて紹介」しているので、一つ読めばその人が何をどうしたかがわかります。呼吸器関係の人は多くはありませんが、範囲を広げればけっこうみつかります。ここではPerutzのものを要約して紹介します。Perutz はヘモグロビンのX線解析で大きな業績を挙げてノーベル賞を受けましたが、背景は知りませんでした。読者もきっと興味を惹かれることでしょう。受賞時の講演ではなく、ずっと後に書かれたエッセイです。
http://www.nobel.se/medicine/articles/perutz/index.html

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(前略)たんぱく質はブラック・ボックスであった
私がウィーンから大学院生としてきたのは1936年だが、当時Rutherford(原子核の発見者)が所長を務めるキャベンディッシュ研究所の中では、私のいた結晶学部門はごく小規模で影が薄かった。しかし、私はの関心は研究所本体とは別の方向に向かっていた。
当時、細胞内の化学反応はすべて酵素で触媒されていると判明したところであった。その酵素は全部たんぱく質であり、しかも当時は遺伝子もたんぱく質と考えられていた。しかし、たんぱく質は構造がほとんどわからず、まして作用メカニズムは全く不明で、いうなれば「たんぱく質はブラック・ボックス」であった。だからこそ、その構造解明は生物学の中心課題で、X線結晶解析はこれを解く随一の方法だった。

ヘモグロビン登場
ヘモグロビンは、手に入りやすく使いやすく、しかも当時結晶になっていた数少ないたんぱく質の1つである。たんぱく質が生物種でどう異なるかの研究の初期に、ワシントンのカーネギー研究所の2人の科学者が、いろいろな動物のヘモグロビン結晶の包括的マップ(地図)を発表していた(Reichert&Brown 1909)。私がヘモグロビン結晶のX線分析を開始した1937年当時、データは何もなかったから、構造に関する情報はどんな断片でも貴重だった。ケンブリッジ呼吸生理学者Barcroft のジョークだが、当時ヘモグロビンに関する情報は切手の裏に書けてしまう程度だという。
ヘモグロビンが構造の明確な回転楕円体と証明したのが私の最初の研究成果で、当時たんぱく質とは羊毛みたいなモジャモジャしたコロイドという通念を破る、新しい概念であった。ヘモグロビン分子では二つの同一構造体が向かい合い、その間には水や電解質が入りこめない点まで判明した。しかし問題は、そこからどうやって進めるだろうか。

二つの好運
1937年にRutherfordが亡くなり、X線解析の創設者Braggがあとを継いだ。原子物理学者には痛い打撃だったろうが、私には幸運だった。Bragg は食塩結晶でナトリウムと塩素の位置を決めてX線解析の研究を始めたが、この手法を複雑な生物体分子の分析にまで広げるという考えはBragg を魅了した。たまたま、私の生国オーストリアがヒトラーに併合されて奨学金が途切れると、Bragg は私のためにロックフェラー財団から補助金を貰い、これで私は研究生活を維持できた。ロックフェラー財団の補助金はその後60年代半ばまで続き、我々の研究所の成功に重要な働きをしている。
戦争の終わり頃、Braggは私を大学講師の職に推薦したが、ケンブリッジ大学の動きはゆっくりで、実現には9年かかった。ロックフェラー財団側は私の給料は当然大学が払うべきと主張して、私は無収入の失業者になった。1945年にはKendrewが私のチームに加わり、成ヒツジと胎児ヒツジでヘモグロビンの比較研究を開始したが、当時のX線解析のレベルからみると野心的過ぎ、しかもKendrewの研究費は2年限りで、後は何の保証もなかった。
この窮状から救われたのは、ケンブリッジ大学のもう一人の偉大な科学者、ロシア生まれの生物学者Keilinのお蔭である。彼はチトクロームの発見者で、当時は別の研究所の長であったが、ヘモグロビンなどヘムたんぱくに興味を示し、Kendrewと私に研究所のスペースを提供してくれた。

分子生物学のための医学研究所の設立
Keilinは当時の医学審議会(MRC:Medical Research Council:アメリカのNIHに相当)の会長と親しく、Bragg を仲介してくれた。1947年10月には運命が転換し、Kendrewと私を中心に「生物学的システムの分子構造の研究のための研究所」をMRCが設立したのである。後に「分子生物学研究所」と呼び変えたが、このテーマが優秀な才能を引きつけた。まずCrickが、ついでHew Huxley とWatsonが加わった。さらにイングラムIngramがロンドンから、ブレナーBrenner が南アフリカから、Doty、Rich、Benzerがアメリカから加わった。
1956年までに人数がかなり多くなり、あちこちに研究場所を借りて使ったが、一方でなんとか自前の研究所をMRCに頼もうとプランを練りはじめた。
しかし、たんぱく質の一部を重い原子で置き換えて構造を解析するという私のアイディアは、原理としては有望だが実際の成果は挙がらなかった。ワトソンとクリックの提案したDNA複製メカニズムにしても、仮説にとどまっていた。(中略)

分子生物学研究所の誕生
1957年、いくつかの事件を契機に状況は大きく改善する。まず、ミオグロビン構造解析にKendrew が低解像度ながら成功した。分かれたDNAの2本のらせんが、各々親となって一つずつ別のらせんを合成することをMeselson が証明し、さらにその新しいらせんの塩基配列が、WatsonとCrickの予測通り、親の塩基配列と相補的とKornbergが証明した。さらに重要な点として、当時インシュリンのアミノ酸配列決定に成功したSanger が、生化学教室から移ってきた。
私は、MRC に新しい研究所の計画を分子生物学の最近の進歩のレポートと一緒に提出した。最初、報告がどう受け取られるか心配で不眠になったが、発表の場所に着くと、「今まで読んだ中で一番面白い」とメンバーの1人が話しかけてきて、計画は即日承認された。
1962年2月に新しい建物に移り、5月には女王来館の下で正式に開所した。CrickとBrennerは王室が嫌いで当日は敬遠したが、Watsonはハーバードからわざわざやって来た。女王に、DNAとミオグロビンの原子モデルを自慢げに見せると、侍女の1人が「身体の中にこんな小さい色のついたボールがあるなんて考えたこともなかったわ!」と叫んだものだ。

研究所は「合併」で生まれた
ビジネス用語で言えば研究所は「合併の産物」で、4つのグループの合成である。Sangerは大学生化学教室から、KendrewとCrickと私はいずれもキャベンディッシュ研究所から、Klug はバークベック・カレッジから、Huxley は単身でロンドン大学から加った。その後、アルゼンチンからMilsteinがSangerグループに加わった。(中略)
研究所は、Sanger のたんぱく・核酸化学、CrickとBrennerの分子遺伝学、Kendrewと私の構造研究の3部門であった。現在は、分子遺伝学部門は細胞生物学部門となり、たんぱく・核酸化学部門に免疫が加わり、新たに神経生物学部門ができている。さらに別組織のたんぱく質工学研究所とも密接に連携活動している。(中略)

技術面で優れた設備の重要性
技術面の設備も優秀だった。研究所発足直後、Kendrewと私は、エンジニアのBroad を雇うようMRC に願い、彼に回転陽極式のX線管の設計を依頼した。彼の製作したX線管は、当時最高の商用X線管より10倍も強力だった。ロックフェラー財団が買ってくれた精密カメラと組み合わせると、私たちの装置はこの領域で世界一優秀で、たんぱく質構造を世界に先駆けて分析する強力な武器であった。初期のこの経験と、キャベンディッシュ研究所での経験もあり、分子生物学研究所でも物理学研究室と同様、新しい大きい機械・電子機器の意義を認識した。(中略)

互いに話し互いに聞く体制
研究所の運営が失敗に終わる場合、科学者が互いに話を交わさない点が原因となる。そこで、研究所には食堂を設け、アイディアの交換を刺激するべく、朝のコーヒーや昼飯やお茶の時間に、おしゃべりの設備を整えた。この世話は私の妻が20年以上も担当し、おいしい食物と友好的雰囲気に気をつかった。
研究設備は共有が原則で、私有財産として守ることはしないのがルールとなった。お蔭でお金が節約でき、お互いに話しあう習慣もついた。研究所の建設当初、研究費が不足で、何事も秘密にしないで乏しきを分かつシンボルとしてドアに鍵をかけずにおいた。それまで、大学で教授にアクセスするには、秘書のオフィスを通さねばならかったが、私は自室のドアが直接通路に通じ、誰でも直接入れるようにした。(中略)
研究所では科学者同士が研究報告のセミナーを開くが、出席者は当の研究者の所属グループに限られがちだ。そこで研究所全体の研究に通暁するようにと、Crickが年に1週間だけ研究所員全員が出席するセミナーを開催し、これが「Crick週間」として確立した。このセミナーでは、Crick が鋭い質問とコメントで会場を圧倒するのが常で、彼がラホヤ(カリフォルニア州サンディエゴ郊外)のソーク研究所に赴任すべくケンブリッジを去った日のことは悲しくて忘れられない。

先見的方策と研究所の生産性
研究所はMRC の先見的方策に負うところが大きい。発足初期には目だった成果が挙がらず、とりわけ「医学」に直接役立つという見通しはほとんどなかったから、その先見性にはいくら感謝してもし過ぎではない。その後も,アセチルコリン受容体の構造決定のUnwinの研究、bacteriorhodopsinに対するHendersonの原子モデル、WalkerによるミトコンドリアATPase 構造決定など、いずれも永続的努力が必要な課題で、短期補助の研究費依存では到底解けなかったはずだ。しかも素晴らしいことに、こうした研究の一端は現在実際的な医学に応用されはじめている。MRCが分子生物学の将来を見通していた信念を正当化するものである。
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最後に、筆者(諏訪邦夫)の感想を少し。ずっと以前、Perutz のX線解析の論文をいくつか読んだ頃、「この名前(語尾がtz)からみるとドイツ人のようだが、何故戦後のイギリスで研究業績を挙げたのか」と不思議に思った記憶があります。今回、ヒットラーのオーストリア侵攻が長期的には好運に働いた点を知り、ヨーロッパの国同士の近さと研究の幅広さや進み方の面白さに改めて感心しました。クリックの話も面白く感じます。王室嫌いで議論好きは、二重らせんは勿論その後の彼の中枢神経系研究のイメージとも一致します。
ここに登場する人物でノーベル賞受賞者は Perutz(1914-2002) の他に, Bragg, Sanger(2回), Watson, Crick, Kendrew, Brenner(2002年のノーベル医学生理学賞、線虫の細胞分化と細胞死)、Walker の8人まで確認しましたが、他にもいるかも知れません。

[諏訪邦夫]

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