英文タイトル: Wooden Lungs : produced and supplied to compensate for shortage of iron-lungs.
ポリオに関する鉄の肺の記事をみていたら、"木の肺:Wooden lung" という記事がみつかりました。なかなか興味深い話なので紹介します。URL は、http://panvent.blogspot.com/2008/01/everything-is-old-new-again.html、http://panvent.blogspot.com/2008/04/home-made-iron-lung-for-hospital-for.html、http://www.mgh.org/hotline/dechot/wooden.html などに載っています。
「木の肺」の基本情報
ポリオで呼吸麻痺になった患者を救う目的で、いろいろな工夫がなされ、この「木の肺」に関しては製作された数も対象患者も特に多かったようです。
発生した場所は、ミシガン州マークェット(Marquette)市で、5大湖の一番上流にあるスペリオル湖の南岸から北向きに飛び出した半島の付け根にある、当時も今も人口3万弱の町です。(図参照)
この町のレイノルズ氏(Reynolds MK)が中心となって、1930年代後半から1950年代はじめまでのポリオの流行の間に、手作業で人工呼吸器をつくってけっこうな人数、おそらく数百人の患者を救ったそうです。
この町では、1938年頃からポリオが散発していましたが、1940年にデトロイトから休暇に来ていた20歳の若者がポリオになり、これをきっかけにポリオの大流行が発生しました。ところが、「鉄の肺」はたった一つしかありませんでした。
レイノルズ氏はプリンストン大学出身のエンジニアで、最初は爆薬製造の会社で働きながら、趣味としてスペリオル湖のヨットクラブをつくり、ヨットの手入れの目的で木工の基礎を学び作業所などと縁を結んでおり、それが「木の肺」に役立ったとあります。
このレイノルズ氏はよほど有能な人だったらしく、はじめは仕事の上で町の中心の病院(St Luke's Hospital) と小児病院などと関係をもつようになり、まず病院の理事に、それから理事長になったのが、1930年代後半で、そこでポリオに遭遇したわけです。
レイノルズ氏は、最初は鉄の肺の製造を試み、いろいろな品物を材料としたといいます。石油のドラム缶を使ってつくったという記録もあります。そんな時、数週間で市全体でポリオが90例発生し、うち23例が呼吸困難となり、当然鉄の肺が不足し増産も間に合わなくなり何例も死亡したようです。
ここでレイノルズ氏は「金属製の『鉄の肺』」を何台かつくったが、これは手間がかかりすぎるので木工で同じ目的を達することを考え、病院と市の要求に応じて、エンジニア・大工・技術者などを招集して木の肺の計画しました。たまたま鉄道の駅にベニア板製の冷蔵庫(氷冷蔵庫)が多数放置してあるのを知っており、それを利用して「人工肺」を急造しました。吸引には、当時すでに普及していた掃除機を利用し、第一号機は自分の妻が使っていた製品をつかったといいます。呼吸サイクルは手動です。第一号機は、3:30 p.m.に作り始めて6:45 p.m.には完成したというので3時間で、材料の手配から数えても4時間で完成し、費用は材料費が10ドルで手間が24ドルの計40ドル弱でした。この後、すぐ続けて10台作成しています。「頸周りの気密用ゴム」には、自動車のタイヤのチューブを使用し、人工呼吸用陰圧作成には、掃除機が多かったがその他の真空ポンプもつかい、換気切り替えの弁には靴のかかと用の皮革をとりよせたとあります。少し後のことですが、蓄音機(レコードプレーヤー)をつかって働作をコントロールしたという記録もあります。
当時、既製品の鉄の肺は会社からレンタルしたものがありましたが、ポリオ財団の援助でこれを結局購入しました。こちらは一台で1,850ドルもして、上記木の肺10台より高価だったと述べていいます。
他の町への活動拡大
マークェット市でのポリオの流行は1941年に終わり、その間にこの地域で180人の患者を治療しました。ところが、1941年には今度はクリーブランド市にポリオが流行しはじめ、こちらは大都会なので「少なくとも鉄の肺が200台ほど必要」と予測します。レイノルズ氏は早速とりあえず木の肺を2台送り届け、それからクリーブランド市に出かけて、使い方と作り方を指導しました(図参照)。さらに、1944年には別の町(グランドラピッヅ:Grand Rapids、現人口は20万)でもポリオが流行し、そこでも同じ活動を展開し、1949年には マンシ(Muncie、インディアナ州、シカゴの東南。現人口12万)でやはりポリオが流行し、同じ活動をくりかえしました。その後、この木の肺は雑誌「Time 」や"Chicago Tribune" 紙などの新聞に紹介されたといいます。
特筆すべきは周囲から勧められた特許申請をレイノルズ氏が拒否している点で、実は鉄の肺の初期に後発のエマーソンの製品を先発のコリンズ社(Drinker の特許をゆずりうけた会社) が訴えて、大騒ぎになっていたという背景があります。
少し後の1952年1月号の" Popular Mechanics" (雑誌名、"Popular Science"の姉妹誌で、主に「物造り」を扱う)に「木造の肺の作り方」という記事が載った由です。またURL の"http://www.mgh.org/hotline/dechot/wooden.html"のmgh は"Marquette General Hospital"のことで、事件当時のSt Luke's Hospital が変わったものです。
トロント小児病院での「木の肺」
実はこれよりさかのぼる1937年に、現在も有名なトロント小児病院ですでに「木の肺」が製作され、こちらは1937年9月13日発行のTime 誌の記事が、インターネットに紹介されています(http://panvent.blogspot.com/2008/04/home-made-iron-lung-for-hospital-for.html)。(図参照) それによると、1937年8月の時点で、トロント小児病院には鉄の肺が一つしかありませんでしたが、少なくとももう一つどうしても必要になりました。当時この装置は、ボストンのコリンズ社(Drinker のオリジナルを製作、1350-2400ドル) とエマーソン社(独自の改良型、1000-1600ドル)が製作し、両社は特許争いをしながら、1929~37年の間にコリンズが250台、エマーソンが30台を販売しましたが、在庫はごく少数しかありません。
余談ですが、当時の1000~2400ドルが今のどのくらいか評価してみます。当時フォードT型自動車はもう量産が始まっており、1910年に1000ドルしたものが1920年には400ドルになり、1930年まで同じレベルです。大都会は別として、アメリカでも日本でも家は車の10~20倍の価格ですから、1937年の2000ドルは、車一台でなくて家一軒が買える金額に近かったかも知れません。
ところでトロント小児病院の管理者(Superintendent) バワー氏(Bower,JHW) は自身もアマチュアのエンジニアで、すぐに本職のエンジニアと大工さんを召集して、数時間で木の肺製作を完成しました。一号機は余りものの寄せ集めだったので費用は無視できる程度だったといいます。まもなく、遠く離れたコロラド州デンバー市でやはり鉄の肺不足とのニュースで、トロントからデンバーにこの木の肺が一台輸送されましたが、患者が二人いて一人は助かりませんでした。「木の肺」は"wooden lung"という用語が多く使われていますが、‘lumber lung’という用語も登場します。‘lumber’は「材木」を意味しますが、使い分けはわかりません。
一方、患者の親が、「鉄の肺が必要」と新聞に訴え、これに応えた匿名の富裕者が2台の鉄の肺を寄贈したという記録もあり、さらにバワー氏と同僚のエンジニアと大工さんはオンタリオ州政府の援助で、上記「木の肺」の「鉄の肺版」を6台製作し、「1台500ドル未満だった」とも書いてあります。
記事では、「どの患者に鉄の肺を使うか、どれだけの期間使うかというのがむずかしい問題」といういわばトリアージの問題も論じられ、それから回復した患者からはずす手順を、「ウィーニング」と呼んで、この言葉と概念がすでに発生しているのがわかります。
この他、同じ1937年にオーストラリアでも木の肺を作って使ったという記録がある由です。また、イギリスでは、海軍の水兵がポリオになり、基地まで船で長距離を輸送する必要上、ありあわせの筒に患者を入れて、真空ポンプがないので水兵が二人がかりで吹子を押し続けたという記録があります(http://www.bbc.co.uk/ww2peopleswar/stories/51/a4548251.shtml)。
エンダースらがポリオウイルスの培養に成功するのが1949年で、1952年にはソークワクチンができてアメリカでは急速に普及し、さらにすぐ後にセイビンの生菌ワクチンが安価に使えるようになって世界中に普及していきます。これに関する日本の事情は、本シリーズの14回目に「日本のポリオ」として扱いました。
図説明 本編に搭乗する五大湖と周辺の地図。マークェットはスペリオル湖、クリーブランドはエリー湖、トロントはオンタリオ湖といずれも湖岸の都市。グランドラピッヅ(Grand Rapids)は、ミシガン湖の東岸に近くミルウォーキーのほぼ対岸。マンシ(Muncie) はシカゴの東南方。デンバーは遠く離れたロッキー山脈の麓で、地図にはない。